日本語が亡びるとき―英語の世紀の中で -まとめと感想

2年も前に出版された本だが、ようやく読み終わったのでまとめと感想。

 

 
 
 
 

 

ここ数年の勉強ブームの一端を担ったのが日本企業における英語の需要増加だが、誰もが英語を勉強しようとしている風潮の中からこの題名「日本語が亡びるとき」を見てドキっとしたのは私だけではないはず。
著者の水村美苗は私のここ5年の読書の中で一冊を選ぶとしたらこれ、という程衝撃を受けた「本格小説」を書いた作家であったので、前々からこの「日本語が~」は持ってはいたのだが(私にとって)あまりにも考察が深すぎて、読み通して理解そして咀嚼するのに数カ月かかってしまった。しっかり理解しているかどうかも疑わしいが、なるほど要するにこういうことを言いたいのね、ということは掴んだと思う。なので、この場を借りて内容のまとめを試みることにした。

この本のメッセージを一言で言うと、
“日本語の書き言葉の劣化によって、日本文学が亡びつつある”
ということだと思う。

つまり、「日本の至宝である近代文学(逆にいえば、今の文学界は荒野と筆者は言っている)を生み出してきたという過去にも関わらず、いかに日本語の書き言葉そして文学がインターネットの登場による英語へ転換の中で危機に瀕しているか」ということ。

彼女はそれを、自身の個人的な在米経験、世界中の作家たちとの交流の体験、世界的に評価を得た日本文学とそれを輝きせしめた日本語の成り立ち、そしていかに話し言葉にすぎなかった俗語がナショナリズムの呼び水たりえたかなどの点から考察しており、また自身で言語の種類を定義することによっても説明を試みている。
以下はこの本で重要な言語の概念。言語は3つに分けられる。

<普遍語>…その辺り一帯を覆う古からある偉大な文明の言葉。例えば文明開化以前の日本での漢文、かつてのラテン語、そして今の世界での英語。
<現地語>…人々が巷で使う言語。俗語。多くの場合、母語。例えば平安時代のひらがなや、近代以前のヨーロッパのほとんどの言語。
<国語>…<普遍語>で説明された概念の<現地語>への翻訳を通じ、<現地語>が昇格した言語。この昇格によって<普遍語>と同じ機能を果たすようになった言語。母語のもつ長所を生かしきることができる。

関係を図にしてみた。

しかし、グーテンベルグの印刷機の発明によって大量印刷が可能になったことによって、それまで話し言葉にすぎなかった各地の言語が書き言葉となり書物として流通、その流れがナショナリズムに大きく貢献することになる。<現地語>であったドイツ語、フランス語、オランダ語などが地域別に何百万の人々によって共有することによって<国語>になった。

そして、今、インターネットによって、学問の言語が英語へ一極化する傾向がより加速化した。水村の言う危機とは、このままでは<国語>が<現地語>へ降格し、つまり国民文学が消滅してしまう、というものだ。

なぜ水村はこのような危機を感じているのか。それは、より多くの知識・知恵を求める人ほど普遍語としての英語に惹かれていくのが自然の流れであるからだ。

<叡智を求める>という行為は、究極的には、目的を問わずに、人間が人間であるがゆえの行為にほかならない(p.187)

からだ。
水村が一貫して繰り返すのは、「母語ゆえに伝わるもの」「翻訳によって伝えられないもの」の消滅の危機である。この危機を切り抜けるため、現在の学校教育へのいくつかの提言をしてこの本は終わる。

ここからは個人的な感想。

日本語の成り立ちの部分はすごくおもしろかった。日本語を習っている外国人達に、「日本語はカタカナ・ひらがな・漢字と3種類あるのがすごく難しい!」と言われる度、特に何も思わずそうよねそうよねとしか返していなかったが、今自分が話している日本語はたった100年強前(言文一致運動、1866年)にその大元ができた、というのは大きな衝撃だった。いかに長い間日本で漢文が高い地位を担っていたのか。日本が植民地にされなかったという事実がどれほど大きく日本語を、全てを変えたか。 

日本はこれまでの歴史の中で対外関係において大きな波を乗り越えてきたが、その度よりよい方向に日本が進むためにはどうすればいいか、本気で考え実行に移そうとしてきた人たちがいたことに胸を打たれる。漢字撤廃論、英語公用語論、仏語(!)公用語論…こんなことを本気で考えていたのかと、驚きなくして見返すことができない。どの政策も日本によかれという気持ちを出発点としており、その当時の文人の最高の叡智が詰まっていたのだ。

“もっと知りたいという人間の欲望”(p.186)
“すべての言葉の、ほかの何者にも還元することができない物質性”(p.93)という箇所に感動した。
英語のMomは日本語の「母」「お母さん」「ママ」「おふくろ」どれにも全く同じではないということを「物質性」という言葉で言い表している。完全に同一の概念を異なる言語間で共有することの、なんと難しいことか、実現できたとすれば、なんと奇蹟的なことか、ということに気付く。

同感できない点。
著者は現在の文学を「取り残されたふきだまり」「荒野」「文学の終わり」と言う。失望している。わからないでもない。呆れるような内容の文章が立派な装填に挟まれて1000円の価格がついていたりすると私も全くいい気持ちはしない。
しかし、同じ時代を生きる作家がリアルタイムで書いた作品を読めるという幸福は無視できないと私は思う。いかに源氏物語や三四郎が素晴らしい文学でも、紫式部や夏目漱石と同じ時代、社会を共有した上でこれらを読むことはもうできない。今生きている作家の小説を私たちが読むことによって、50年後の読者が感じることのできない機微を拾うことができるかもしれない。それは筆者と同じ時代を生きる自分たちにのみ許された贅沢だ。だから、現在の文学を見放している感のある著者のものの見方には同意できない。

また、筆者は教育課程で近代文学を読む時間を増やすことを提案しているが、私は伝統かなづかい「かうして」(こうして)「いづれ」(いずれ)の情緒は理解してもそれを読み直すことによって何が変わるのか、いまいち実感できない。
“私たちが知っていた日本の文学とはこんなものではなかった、”(p.323)の「私たち」は誰なのか…。明らかに私は入っていないな、と思ってしまった。文学の意義の話になってしまうが、何の為に守る文学なのか、私の中では結論が出ない。

最後に私らしく文句を言うと、 「周知のように」「ご存知のように」頻出しすぎ。私は日本の真珠湾攻撃後アメリカがエリートを集めて日本語を叩き込みその中から戦後著名な日本研究者が出たことも、「愛」など西洋的な言葉が聖書の漢文訳から来たことも、日本が平安時代に科挙を導入しようとして失敗したことも大概知らなかったので、「周知のように」が出てくる度ちょっとイラっとした。

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